明日は市立病院まで、妻の通院付き添い
PDに係る受診、1月に二回は訪問診療医に頼っていますが
3か月に一回の診療科は専門でないので、通院付き添いせざるを得ない
付き添い帰りに、幕張豊砂駅を降り、さくら広場に
寄れたら寄ろうと思う
最近は、ブログを書くゆとりがない
2月ごろからのことを振り返ってみた
まずは、昨日の地域サークル撮影会参加の記事から
3月下旬の日記
〇 泉自然公園のカタクリ
妻をデイサービスに送り出し、泉自然公園に向かった
公園は、カタクリ、さくら、ヤマユリ、紅葉など撮影のため
何回か行ったことがあるが、妻の介護が発生してからは遠のいていた
久々の公園行きだった

バスは、平和公園回りだったので、
現地到着は家を出て1時間30分ほどだった
以前撮影時よりカタクリが小粒な感じがした

桜も撮影したかったが
昼過ぎに帰りのバスに乗った

帰宅は13時15分ごろだった

レンズは、望遠、マクロ、標準レンズを持参したが
使用したのは、望遠とマクロ
望遠レンズの使用が多かったが、仕上がった写真を見ると
マクロが良かったので、マクロを使いこなせばよかった
と反省!
3月下旬の日記
〇 さくら広場の下見、コストコの買い物
車いすを想定
自宅から最寄り駅まで、ほゞ15分
最寄り駅から幕張豊砂まで15分
そこから広場まで15分
計約45分

下見のこの日は、1,2本の木が開花していた
見ごろは週末か?
入園は、10時で無料
ふだんはママチャリで直行、
広場から、コストコまで徒歩7分
コストコで30分ほど店内ぶらぶら
玄米5kgと味噌大パック、アーモンドチョコを買う
帰りは、モール前を通過
エドヒガンが満開だった

花見川のエドヒガンが見ごろか、頭に浮かんだ

明後日は、泉自然公園のカタクリ撮影会!
介護で不参加つづきの撮影会、デイサービスの日と重なるので参加しようと思う
3月11日の日記
〇 展示会―ショートスティー・最近読んだ本から―3.11、戦争、平和
○ 展示会
最寄りのギャラリーで、写友と展示会を行うことになった
老々介護がつづく状態に80の齢を超え、自由に活動することが難しくなった
が、なんとか参加の予定
今回が最初にして最後かもしれない
展示作品は、いままでに撮った写真から10枚程度の予定
搬入搬出は、天気が良ければ、ママチャリの荷台を拡げて作品を搭載と思ったが、
額など損傷の恐れがあれば、タクシーで行こうと思う
(車は、70歳ごろに手放し免許を返納した)
寒暖差のある日が続いているが、暖かい日は妻を車いすに乗せ、リハビリ外出
先日は、妻を車いすに乗せ、ギャラリーまでの所要時間を計ってみた
約1.5kmで30分弱だった
ギャラリーのあるショッピングセンターで昼食の食材を買って
復路は水路沿いを歩いた

廃校横の歩道沿いにあるカンヒザクラが満開だった
そこを通り過ぎ右折すると、いつものK公園

日向ぼっこをし、芝生で妻の歩行リハビリをして帰宅した
○ ショートスティー、最近読んだ本
先月、今月とショートスティーを利用した
施設から部屋で転倒し、頭を打ったとの連絡があった
看護師の診断手当で、たいしたことがなく、無事に終えた
ショートスティーの間は、見守り介助の拘束・気遣いから解放される
家事はいつもどおりですが、まとまった自由で解放された時間に必要事項が処理でき、昼寝の休息やウォーキングなどができる
ウォーキングは、久々に最寄りの公園外周を5周回
午後2時20分から1時間半ぐらいだったが
・7:44~11:45~11:35~11:25~11:15~10:54~7:37
5周回は56:54だった
先日は、「老々介護18年」を読んだ
日内変動に振り回される日々もあれば、おやっ!?と思う穏やかな日もあり
一喜一憂で繰り返し先が見えないような介護の日々
読み終えて、在宅での長期にわたる老々介護「発症~介護~看取りまでの流れ」を知った

80歳を過ぎ、自身の高齢による心身の衰えを自覚しても、なるようにしかならない
病院、施設、在宅、… …
著者のように、超長距離を完走できるか定かでない
その後、部屋の本棚にあった、35年も前に購入した下の本、
句集なんだけれど、たしか夫が妻を介護していた内容を思い出し
引っ張り出して再読した

脳梗塞で倒れた半身不随の妻を
20年近く介護の夫
老夫婦の日常を妻の俳句と写真まじりで表した本「花浄土 句集「白道」」
1990年の敬老の日にNHKテレビで放映され、視聴者から大きな反響があった
とのこと
そんな昔は、私は働き盛りで介護の当事者でもなかったし、介護に関心もなかったころなので、購入のきっかけや動機は不明、
しかし今なら身近に感じて読むことができる
○ 3.11、戦争、平和
災害も戦争も嫌ですね!
今日は、東日本大震災から15年、当ブログで振り返ってみた
・3/11 東日本大震災
・3/12 震災2日目
・3/13 震災3日目
・3/14 震災4日目の状況
・3/15 震災5日めは、缶詰状態
・3/17 震災7日め
・3/19 金魚ばち
・3/26 地震後の噴出土の撤去
…
・4/22 原発震災(1)
…
・6/26 千葉市内の放射能の現状と影響について
…
※ 原発依存から脱し将来も安心して暮らせる国へ
※ 老朽化した原発の再稼働
政治家には、平和へのかじ取りを誤らないでほしい
最悪、戦争に巻き込まれるような外交、対外対応はしてほしくない
私は、終戦(敗戦)の年に生まれた
その年から、曲がりなりにも日本は平和が80年続いている
当ブログの2018年の記事、
先の大戦を経験された方の記事を振り返ってみた
2018年の後は、コロナ禍、ウクライナ・ロシア、イスラエル・ガザなどに戦禍が発生、続いて米・イスラエルのイラン攻撃と日々、悲惨な報道が流れている
国内では昨年後半に新政権に変わり、以前の状況から武器輸出や非核三原則の変更、憲法9条の改変、スパイ防止法の制定のニュースが流れた
数日前には、九州熊本市に、ミサイル配置のニュースが流れた
きな臭い様相を呈している
争いが中東からアジアに拡がらないように願いたい
ふだんは老々介護に翻弄され、周辺の変化をかまうゆとりがないですが、平和でなければ介護もできない
世界も日本も、平和で穏やかでありますように!
・以下は、2018/1/7記事から抜粋、再掲です
『
今朝の朝刊からの抜粋転載です。

私たちが感じていて、誰も表立って言わないことが多いなか、さらりとエッセイにしている。
上記のエッセイに共感しつつ、今の日本の状況と重ね合わせ、かつて心に響いた抜き書きを以下に再掲しました。(故人2人)
<池波正太郎>
○ 還暦に思う人生(昭和58年)
・これは、太平洋戦争に若い自分が直面し、その前途が五分五分に生死に賭けられていたからだろう。
だが、戦場で戦うこともなく、海軍の航空基地から復員したときは、生還の僥倖を喜ぶよりも、日本の敗戦により、一夜のうちに変わった時代と、戦死した少年航空兵の顔が重なり合い、一年ほど虚脱してしまっていた。
‥ ‥
おのれの健康をほこる気持ちは、いささかもない。生と死は、いつも、隣り合わせになっているのだから……。
60年生きて来て、いまさら感じることは、我欲のない人ほど幸福になっていることだ。
むろんのことに、これは金銭とは別のもので、いかに我欲を貼って財産を得たところで人間は満たされない。その実例を、数え切れぬほどに、私は、この目で見てきた。
恐ろしいのは、我欲と傲慢の結果が、すぐにあらわれずに、一国家、一団体、一個人それぞれに、我欲の芽がふくらみ、長く潜伏していて、これが表にあらわれ、はっと気づいたときには、手遅れになっていることだ。
私の我欲が薄いといっても、ないわけではない。
その残存する我欲を一つ一つ取り除くことを、こころがけて行きたい。
‥ ‥
…私は、政治や経済のうごきについては、ジャーナリズムを信用しない。できない。
これは、終戦のときの、一夜にして白が黒となり、黒が白となった衝撃が尾を引いているからだ。
私が信用するのは、自分の目でとらえた「一個人が表現しているもの」のみである。
○ すべて簡素に、簡明に(昭和59年)
・こう書いてくると、まだまだやりたいことはいくらでもあるわけだが、私は欲張らない。
仕事と生活の上において余分なものは一つ一つ切りとって行き、もっとも簡素な生き方をしたい。
戦後の私は、あまり人付き合いのよい男ではなくなってしまったけれども、これからはなおさら義理を欠き、付き合いの時間を減らしていくつもりだ。
それも60歳を超えた私には許されることだと思っている。
これからは、人も世も、国家も、すべて簡素に……簡明にである。
<茨木のり子>
1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。
2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。
●自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
その後、 弟が先に他界し、かつての同人仲間が1人、2人と世を去るのを見送った。だが、彼女は孤独感をものともせず、1999年に73歳で『倚(よ)りかからず』を発表するなど、詩への創作意欲は衰えなかった。
●倚(よ)りかからず ※73歳の作品
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
2006年、自宅で脳動脈瘤破裂によって急逝した彼女を、訪ねてきた親戚が発見する。きっちりと生きることを心がけた彼女らしく遺書が用意されていた。「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。“あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」。この力強さ。享年79歳。
戦争への怒りを女性としてうたい上げた「私が一番きれいだったとき」は多くの教科書に掲載され、米国では反ベトナム戦争運動の中でフォーク歌手ピート・シーガーが『When I Was Most Beautiful』として曲をつけた。彼女の心の声が国境を越えて人の心を打ったのだ。人生を明るく、そして清々しくうたう茨木の詩は、没後も多くの人を魅了し、晩年の『倚りかからず』は詩集としては異例となる15万部のベストセラーになっている。エッセイ本も多数。 韓国語を学んで出した『韓国現代詩選』(1990)では読売文学賞を受賞している。
●わたしが一番きれいだったとき (茨木さんは15歳で日米開戦を、19歳で終戦をむかえた)
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね
冒頭の朝刊エッセイに関連して、
この5年間で、特定秘密保護法(25/12/13)・安保法(28/3/29)・共謀罪法(29/6/21)などの重要法案が成立し、今年度は憲法改正!!
メディアを通じてのプロパガンダというか、世論操作に惑わされないようにしたい。

432円の文庫本「日本国憲法」(講談社学術文庫)から主要な箇所を抽出してみた。



他の条文も大切なのですが、とりあえず。
冒頭のエッセイの一文をお借りすれば、
今年こそは国民一人ひとりが「正気」を保って、平穏な世の中がず~っと続くようにしていきたいですね!! 』